雑感 年末に

間が悪い人がいる。
こちらの忙しい時、時間がない時に限って訪ねてくる人たちがいる。
時間がある時なら、ゆっくり語り合いたいのに、なんて間が悪い人だろう?
でもさ。
もしかしたら、間が悪いのはこちらかもしれない。
相手の間が悪いのではなく、こちらなのかも?
みんなが訪ねてきそうな時間に忙しくしている、のでは?
悩んでいる。


暇な時間に任せて、他の人の歌を聞いたりしている。
ここのところ、テレビで音楽番組が多い。
著名なミュージシャンの過去のライブなどを放映している。
で、思ったのだ。

偉そうだけど、どの歌を聞いてもいまいち面白くない。
でも、お客さんは熱狂している。

なんだろうこれは?
べんさんが時代遅れなのだろうな!と思ったりする。
心に響かないのだな。
なんだろうこれは?

自分の歌を歌ってみる。
これがいいのだ!笑
「子どもたちのSOS」は鳥肌が立つ。
「自分で」「息子に」「佐藤くん」「ぼくを笑わないで」「め」「春の風・るらり」まだまだある。
何十年歌っても、飽きが来ない歌なのだ。
なんだろうこれは?


簡単に言えば、自分の世界が確立してきたのだと。
忖度や、営業のためではなく、自分の歌いたい歌を作ってきたからではないか?

思うに、べんさんは、子どもの頃から、どこか人と違うタイプの人間だった。考えていることが、他の人と合わないのだ。
表面的に、他の人と合わせて生きてきたけど、自分のやりたいことは違っていた。

小学生の頃から天体(変態ではない)が好きで、天文学の本を読み漁った。
北海道の山奥で「天文と気象」「天文ガイド」という月刊誌を購読していた。
中学の時には、東大の先生の論文を読んでいた。
かなり変わっていただろうな。
(今になって、時々そうした人と出会うのだけどね)

べんさんの歌も、どこか変わっている。
歌の市場としては1%もない。
1%の人たちの中で生きてきた。
それが生きる道だったのだろう。

先日、劇団「うりんこ」のお芝居を見た。
小中高校生が多く鑑賞していた。
もしかすると、あの子たちも、どこか変わっているのかもしれない。
児童演劇、一般的にはマニアックなお芝居だものね。

こんなことを書いているが、
「べんさんは変わってみえるかもしれないが、しごくまともな人生だ」と思っている。
「うりんこ」を観劇していた若者たちも、普通なんだよ。
みんな一緒じゃなくていい。
いろいろな価値観があっていいのだ。
「みんな違ってみんないい」

べんさんは、実は「協調圧力」に弱い。
「みんなやってるよ」に弱い。
忖度してしまう。
忖度した方が楽なのだ。
みんなと合わせながら「自分は自分でいい」と、陰でほくそ笑んでいる、嫌な男だ。

でもね、不登校の子、引きこもりの子たちは、そういう忖度ができない、まともな子たちなのだ。
その子たちがいて、当たり前なのだ。
みんな一緒が嫌なのだ。
違うことを認め合う社会にならないといけない。
不登校、引きこもりの人たちは、もっとも最先端を歩んでいるのだ。

学校はいいんだよ。
多くの人と出会える場なんだから。
学校が、もっと自由で、豊かなものでなくてはならない。

時代が変わってきている。
地球は狭くなっている。
本来あるべき民主主義と、日本の変則的な民主主義の狭間で苦しんでいる私たち。

なんてことを考えながら、これから「みんなの風」福祉会の交流会に行く。
5月の45周年コンサートにたくさんできてくれた、そのお礼を兼ねて。

少し長くなった。
何日か、休んでいたからね。

この記事へのコメント

とっくん
2024年12月29日 05:39
べんさん、べんさんの歌がべんさん自身に響くのは、それは自分の歌だからだろうね。自分の中から産み出された気持ちやメロディーだからね。
僕自身でさえも、数少ない自作の曲を歌っていると「なんていい曲なんだろう」って思うよ。ただ、僕は発表をしてないから、誰にも届かない。

で、たとえ1%であろうと、べんさんが産み出した歌に共感する方々に響くから、こうして長く音楽活動を続けられたんだろうね。
べんさんも時々言うように、これが大ヒット曲ばかりだったら、大量消費社会の中に埋没していくんだと思うな。